昭和45年03月15日 夜の御理解



 真心になれなかったりして、 お詫びばっかりさせてもらうわけでございますけれども、とりわけこの御霊様のお祭り、を仕えるというのは、やっぱり一つの思いというかね、さ、指折数えて例えば、それを祭るという信条というか。または、あ、祭りだから、あれこれと例えば、お供え一つもののことでも、心にかけさせてもろうて思いを込めるとか、といったようなことが、とりわけ、御霊様、あの直接それを、やはり私、いつも感じます。御霊の御祭する時には。
 そういうようなあれで、昨日から私はね、あのここがあの去年、丁度一年前の何日前でしたでしょうかね、あそこで事故に遭われた時のあの、場所を頂くんですよ。それがそこがどこか分からんもんですから。今日千恵子さんに聞かせて頂いたんですけれども、今日はそういう意味でちょっと用件があって福岡に参りにましたから、丁度この辺だろうと思うところでまあ、自動車の中からでしたけれど、御祈念させて頂いて、なんかこうなんというですかね、生々しいものというかね、いうならば私は、はあこれだけで。
 今日のお祭りは、仕えられるなあ」といったようなものをやはり、感じさせて頂くですね。そういうものがやっぱり必要なんです。これは、私があの宅祭りなんか参りますと、たくさん夕食の時に、御御地そうがしてございます。もう、とにかく沢山してございます。ところが私が、お祭り前には、アルコールをとらないことにしておりますから、もう、本当に、もう、お刺身がある、フライがある、まあ、いろいろしてくれとるけれども、ここにお神酒がひとつあったらですね。
 すばらしくお御馳走が生きてこうと思いますけれども。ま、現在では、私はね、ビールやらサイダーがわりに頂きよりますから、ま、少しづつ、宅祭りなんか行っても頂きますけども、以前は、そげんでしたが、どんなにお御馳走があってもそこにね、アルコールけが無かったら、これがね、死んでしまうわけじゃないけれども、値打ちが半減するですね。あそこにお神酒が一杯出た時に、始めて、その例えば作っておられる料理なんかが生きてくるわけなんですよね。
 ですから、あの信心にはもう全て、何事にも信心になれよとおっしゃるその、ところから、あり難き勿体無いなき恐れ多きのお神酒が頂けるのでございますから、私は、そういうその生生しいあの御霊様に対して、おかげでと、言うようなものをですね、いよいよ年々、まあ、一年祭が終わったら三年祭、三年祭終わったら五年祭、というように、式年祭を重ねるに従ってお祭りが有難いお祭りになっていかなきゃならん。
 もう、それには、生々しいその涙といったようなものではなくて、もう、本当に、例えば、これは、なら、私が、私の亡くなった兄弟達に、もう、本当にその時には、ああだったけれども、本当にそのおかげで、このようにおかげを頂いたといったようなものが、喜びのことがね、その喜びの生き生きとしたありがたいといったようなものの、言わば、リズムに乗って、御霊様が踊られるという感じですね。
 ですからその辺のところをですね、頂くためには矢張り信心がなさらなきゃなりません。信心が本当になされなければ、全てがですね、もうおかげでというものが強うなってくるんです。これはここに一番求められるのは、私は千恵子さんの信心だと思うですね。そしてそのどんな場合であっても、そこからあの信心の悟りを開くというか、おかげを頂いて、そこから有難いというものが愈々強なって。
 おかげでというものが段々今度は、なんというでしょうかね、生々しい有難さと言うのが、頂ける様な信心をおかげ頂かねばならないという感じ。まあ一年祭ともなるとちょうど、一年前のことを思い出させてもろうて、ま言うならば新たなまた、涙を誘う思いがいたしますけれども、もう本気でですね、そういう例えば相すみませんとか又は、そういう生々しい悲しさと言った様なものではなくて。
 私は、信心の有難さと言うものがね、私は、伴わなければいけんのじゃないだろうかと思うです。これも私まあその事を、後で色々話しようと思いよりますけれどもね。あの昔は、破れ饅頭ちゆうのがあったですよね、破れ饅頭が一杯お供えしてある所を、一杯ちゅうかそんなその三宝一台お供えしてある。そすとあのお花にね米ツツジちゆうのがありましょう。米ツツジが一杯さしてある所を頂いたんですよ。ね。
 まあ大変色々意味合いのある事ではあろうと、こう思いますけれども、とにかく信心の有難さを是からは、あの御霊様への御霊様の例えて言うと、リズムにのっておかげを頂いていかれるようなね、お繰り合わせを頂かなきゃならん。今日はあの日田の綾部さんのところの、娘さんの今度名取を習われた名披露の舞踊の会があったんです。それもどうでも行かなきゃならん、いわば羽目になっとりましたから実は、やらせて頂いたんですけれども。そりゃやっぱり子供の時からあの、舞踊をしておられますからですね。
 そりやあもう実に見事でした。もうあの吉野山忠信をやられましたがね、あんな小さい体小さい人ですが、どんなにあんなに舞台にでて、静御前はとってもその前の段に、弁慶をされるぐらいに頑丈な人ですもん。それにそのあちらは華奢な、ですからどういう吉野山が演出されるじゃろうかと、私は実際心配して見よったけれども問題は芸ですね。もう本当にこのそれこそあの小さい体で。
 舞台一杯という感じの模様をおうて御座いましがねえ。所がその最期の引っ込みの時に、わらじを履いてきとるとを、又わらじを履かなきゃならん所があるんです。それをあの持ち方ち方の方達が、わらじを履かせてやらなならん所がある所で、ちょっともうテンポをその遅くなしたんですね。ですからその静御前がもう、早道引っ込んだそれ、あんなに間を作っちゃならんのですよ。それだけ遅れた手が。
 所がところが私はもう度胸というのは、たいした事だと思いましたですね、もうそういう例えば間違うておった事でもですね、日頃稽古をしておる度胸ですね、もう誰もきづかん。ただ本当にただ知っとるもんだけしか分からなかったろうと思う様な素晴らしい引っ込みでした。花道の引っ込みなんか。大体だからちょっと手ば幾つかどけなならん。で後からその降りて来てからですもん。
 「もう本当にあんなことは、初めてじゃったけども、いわゆるごまかして踊った」というけれどですね。それがね日頃の稽古でですね、いっちょん手を見せない。ようにですね、その稽古によってですね、それが返ってこう愛嬌になったり、それがその一つもあのいうならば、私共と神様だけしかご承知のない、私共と御霊様だけしかご承知がないという世界に私ともが生き抜いとるとですけん。
 例えばねなら他の者がね知らんのでもね、知らんなりに言うなら、悪くいうと誤魔化ちいけれる是は、私は信心がね、信心がだんだんおかげを頂いて参りますとです、お粗末ご無礼は誰でもあります。ありますけれども、日頃の信心の稽古でですね、そこをすうっと有難く受け抜いて行かれる事があるんですよ。そういう意味で千恵子さんは、まだ信心が未熟だという感じでした。だから愈々信心そういう風にですね。
 例えば信心のそのによって、もっともっと有難いというものが是に添えたらですね。折角の例えば、是だけ沢山のお御馳走がしてある中に、御神酒が少なかったんでは、このお肴が死んでしまうという感じ。ですからそこにたっぷり有難たき、勿体無いなきがあって、そのさかなが全部生きて来る様なおかげを頂くために、是はもう純粋の信心。純信心。ただ形の上だけでね。今日は午前中は、千恵子さんとこは。
 あちらの福岡の方でやっぱり一年の法事があった。原さん達もみんな行ったんですけれども、お坊さんが1時のはずが2時にこらしゃった。それでもう御直会いっぱい見えとるけん御直会の人達に、御神酒を先に上げてと言う事だったらしいん。まあ言うならまあ本当に形だけでする事は、どげなこってん出来るとこう思いますよね。けれどもお道の信心を頂いてるおりゃそんなわけには、いけませんですね。やはりそこん所を御霊様は。やっぱり本気でいかなければなりませんから。
 だからそういう形とかなんかというなら、もう例えば是だけ思いを込めて、してあるお祭りで御座いますし、千恵子さんがひとりで、子供ひとり抱えて、そしてまあ細々と生活させて頂いとる中から、この様に出来させて頂いたのですから、まあ言うなら普通の人間的に言うなら、本当に感心なこっちゃあるという事なのですよ。または本当に立派な一年祭がでけたということでございましょうけれどもね。
 けども本当に私が思いを込めるということなんかでも、信心ができんと本当の思いが込められん。だからなら千恵子さんが信心しとらんわけじゃないけれども、もう一段とですよ、例えばもう一段と大きな信心。もう少し豊かな信心をさせて頂いて、ね、お粗末ご無礼が、例えば人間じゃけんございますけれども、そのお粗末ご無礼でもですね、それこそ、やってのけていけれるだけの日頃の稽古がね、大事じゃないかというふうに、私今日のお祭りを仕えて、思わせて頂きました。
   どうぞ。